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12月、3月、6月、9月の季節の変わり目に
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マッキンリーに挑戦した当時の想いを綴った長谷川真児の登山記「雪山が教えてくれたこと」は現在会報誌内にて連載中。
1話から読み返したい方はこちらからお読みいただけます。※発行後に更新
01 きっかけ
昭和61年6月、21歳の私は、アンカレッジ行きの飛行機の中で、出発前に渡された福島の地方新聞を何度も繰り返し読みながら、今まで経験したことのないプレッシャーを感じていた。その紙面には大きな字で「登山歴ゼロの青年マッキンリーからのスキー滑降に挑戦! 」と書かれていた。そういえば、出発前に新聞記者が来て色々聞かれて答えた覚えはあるが、まさかこんなにも大きく掲載されるとは夢にも思っていなかった。
出発から半年くらい前に、当時家族同様のおつきあいをしていた故田部井淳子氏より「真児くん、一緒にマッキンリーに行かない?」と本当に軽く誘われたのがきっかけでした。当時の私は大学受験失敗後、父が地元のスキースクールを運営していたので夏場はバイトをして冬はスキー三昧という気楽な生活をしていました。本格的な登山歴などなく海外にも行ったことがなかったのですが、ウキウキ気分で何一つ躊躇することなく即答したことを覚えています。もちろんその時は、マッキンリーがどんな山だとも知りませんし、登頂したいとか、山頂からスキーでの滑降したいとかではなく、ただ、スキーを持って海外に行けるという喜びだけだったのです。
私が住んでいる猪苗代町は当時は1万8千人たらずの小さな町なので、今と違いインターネットもない時代の唯一の情報元である新聞の第一面の半分近くも割いた記事が全町民に知れ渡ってしまったということの現実に向き合わなければいけませんでした。
「この新聞に書いてあることを達成できなかったら二度とこの町には帰ってこれない。」真剣にそう思ったのです。
色々聞くと、北米大陸最高峰マッキン リー(現在名デナリ)マッキンリーからのスキー滑降といえば、エベレストをパラシュートをつけて滑走した三浦雄一郎氏が有名だが、実は、マッキンリーは天候に恵まれず頂上からは滑っていないこと。私が挑戦する1ヶ月前にプロスキーヤー和田好正氏も天候に恵まれず頂上からの滑走に挑戦したが成功しなかったらしいとのこと。
しかも、三浦さんや和田さんはその為だけにプロジェクトチームを組んで、お金をかけ荷揚げの為のサポート体勢もしっかりしても成功しなかったのである。
かたや自分は、登山の経験もない上に、全部自分で荷揚げも何もかもやらなければいけないわけで、 誰が考えても成功する確率はゼロに近いし、万が一私が成功してしまったら、少なくとも日本人で初めてとなってしまうのだ。
考えれば考えるほど今までに経験したことが無いプレッシャーが重くのしかかりアンカレッジに着くまでの8時間ものフライトで一睡もできませんでした。
02 続・きっかけ
雪国猪苗代町で育ち、物心が付いた頃からスキーに親しんでいたその当時の私にとって、どんな急な斜面でも、スキーで滑ることは、朝飯前のことだ。しかし、今回の相手は北米大陸最高峰の山であり、そこにはリフトもゴンドラもない。滑る前に自分の足で登らなければならないのである。その山を調べれば調べるほど、今回の挑戦は自分でも無謀なことだと思えてきた。
まず、植村直己という世界で有名な冒険家が亡くなった山だということ。有名なプロスキーヤーの三浦雄一郎氏も頂上からの完全滑走は出来なかったこと。私が行く6月の一番条件の良い時期でも登頂率さえが半分以下なこと。そして、標高が地元の磐梯山の3倍以上(標高6,191M )あること・・・調べればきりがない。まして、私は登山歴が全くなかった。しいていえば、小学校や中学校の行事で磐梯山(標高1,819M )に登ったくらいなのである。
なぜ、そんな無謀なことに挑戦しようとしたのかとまずはみなさん疑問だと思うので、ここで説明したいと思う。
実は、世界で初めて女性でエベレスト登頂に成功した田部井淳子氏とその当時、家族ぐるみのつきあいをしていたのだ。私の父親がスキー学校を経営していたので、その父が田部井氏にスキーを教えたのがつきあいの始まりである。その田部井氏から、ある日突然、マッキンリーに一緒に行かない?と誘われたのである。
決して、田部井氏は私のスキーや登山の腕を見込んで誘った訳ではない。あとで分かったことだが、田部井氏の友人がマッキンリー登山ツアーを企画したのだが、採算のとれる人数が集まらなかったため、声をかけたらしい。その時は、田部井氏もまさかスキーを担いで頂上まで登ってしまい、しかも、日本人としては初の快挙となる頂上からの完全滑降を成し遂げてしまうとは夢にも思っていなかっただろう。
無知というのは、恐ろしいものである。私は何の疑問も持たず、うきうき気分で返事をしてしまったのである。実は、その時海外に行った経験がなく、飛行機も北海道に1度行ったときに乗ったくらいだったのだ。その頃、私の家に冬の間スキーをするために当時明治大学在学中の廣井という私と同じ年の男が居候していた。スキーもへたくそで、登山歴がない彼も誘ったら一緒に行くというこが、気分を海外旅行にしてしまったのだ。
二人の両親もその時は、大変危険なところだと認識していなかったらしい。私が出発してから、夜も眠れないくらい心配だったというが。
そんな私たちは、もちろん登山の道具を何一つ持っていない。まずは、道具を揃えることから始めなければならない。4月のはじめ頃だったと記憶している。廣井と待ち合わせ場所である新宿の石井スポーツへと向かった。そこには、どす黒い顔をした小柄な男が私たちを待っていた。今回の私たちのツアーの添乗員(登山隊の隊長)である小松氏である。それじゃ、順番にいこうか。登山道具を一通り買い揃えるのだが、我々には何が必要なのか、何が良いものなのか全く分からない。話しかけられても、登山の用語すら分からないのだ。からびな??ゆまーる??なんだそれ?????
約半日かけなんとか買い物を終えることが出来たが、2人とも新品の大きなザックを背負い、東京の町を歩いている姿は異様だっただろう。この先、大変なことが待ちかまえているなど夢にも思わない2人は、その足で友達と合流し、夜の街へと消えていったのはいうまでもない。
03 雪山の経験
私が中学3年の冬、1月14日だったと記憶しているが、唯一雪山の経験をしたことがある。突然、父が磐梯山に登ってこようと言い出したのだ。
その年は暖冬で、全くと言っていいほどその時期でも雪がなかった。
父の計画ではおそらく、猪苗代スキー場のリフトで登れるところまで登り、そこからスキーを担いで沼の平というところまで行き、一泊して、自宅までスキーで滑ってこようというものだったと思う。
真相は定かではないが、今思うと、受験なのに勉強に集中出来ない息子を見ていて、父親として何かしてしてあげたいという訳の分からない行動だったのではないかと思う。まさか、息子を道連れに心中しようとしたわけではないだろう。
今、自分が親となって、何となくその当時の父の気持ちが分かってきたような気もするが、普通の親は決してとらない行動だということはこれからの文章で理解できると思う。
初日の目的地である沼の平に着いたときは、もう薄暗くなっていた。夕御飯を食べたあと、大きな石があるところに大きなブルーシートを敷き、夏用の寝袋に入り、寝ることにした。繰り返しになるが、その日は1月14日の真冬で、しかも、猪苗代スキー場から1時間近く登った磐梯山である。その状況でさらになんと、テントがないのである。暖冬だったので、常識はずれた父はそれで十分だと思ったのだろうか。
空を見ると星が綺麗だった。こんなに長い時間、星空を見る機会など一生ないかもしれない・・・と思いつつ、寒さも忘れて寝ようとしたその時、1円玉もある大粒の雪が顔の上に落ちてきたのだ。気がつくと、綺麗な星空はどこにもなく、ただ空一面から大きな雪が次々と顔に襲ってくるではないか。見る見るうちにまわりに雪が積もってきて、急激に気温も下がったのだろう、さすがに寒くなってきた。さらに追い打ちをかけるように、ラジオから、会津地方に大雪注意報が出されましたというニュースが・・・・
それから、薄明るくなるまでどのようにしていたのか、あまり記憶にないが、とりあえず、汗で凍った着替えをリックからだし、少しでも寒さに耐えようと寝袋の中に入れたり、寝ないようにと、父が時々声をかけてくれていたのを覚えている。
なんと、一晩で積もった雪の量は私の胸近くまであったのだから1メートル以上あっただろう。一言も話もせず、準備をして、父がラッセルした後を、必死に着いていったのを覚えている。猪苗代スキー場のゲレンデに着いたときは、私はうれしくて水を得た魚のように一気に滑り落ちたが、父はそんな私を見て何故か涙が止まらなかったという。常識はずれた父でも、自分の不注意で息子を殺してしまうかもしれないという耐え難いプレッシャーがあったのだろうか。
今、自分が親になって、初めて父親の気持ちが分かることが沢山あるが、この経験は私にとって絶対に忘れることが出来ない父との良い思い出である。あの時、父と一緒だったので少しも不安な気持ちになることなく、むしろそういう状況にいる自分に楽しんでいたように思う。父は、不安でどうしようもなかったと思うが、あの時の父の行動は、子供(私)に一つも不安を与えることがなかった。
もし、私が同じような状況に置かれたらどうしただろう。おそらく、子供にも不安を与えるような行動をとってしまうのではないかと思う。
男として、父親として、人間として、極限の状態に追い込まれたときにその人がとる行動で、その人の価値が全て分かると私は思う。
この貴重な経験と、その経験によって勉強したことは、マッキンリーの挑戦するにあたり、欠かせないものだった。また、これからの人生や会社を経営するにあたり、私には欠かせないことである。
04.登山訓練(富士山)
ズブの素人をさすがにそのままマッキンリーに連れて行く事は出来ないと思ったのだろう。訓練をすることになった。まず連れて行かれたのはまだ雪の多い4月の富士山である。登山靴にアイゼンというものを履かせ、雪の上の歩き方を練習する訓練だ。普通の人たちは、最初はとまどって歩けないらしいが、スキーは一番得意とすることで、まして、歩行訓練などスキー靴で歩きなれている為、最初の訓練は全く不要であった。また、30キロの荷物を背負っての初めての登山だったが、多少、高山病にかかったような感じがしただけで、余裕で頂上までたどり着くことが出来た。頂上に着いたとき、日本一の山に登ったわりには、感動があまりなかったような気がする。
人生において、夢や目標を持つということは大事なことであることはいうまでもないが、その設定の仕方は、人それぞれ色々である。現実離れした方がいいのか、現実的な方がいいのかということでは、私は、このマッキンリーの経験から、夢や目標は現実離れしていると思われる(思う)くらい大きい方が良いと思う。もし、私の目標が、マッキンリーではなく、4月の雪のある富士山登頂だったら、30キロの荷物を背負って、頂上まで行けなかったと思うからだ。まして、余裕などあるはずもない。マッキンリーという大きな目標があったからこそ、一つの通過点だと思っていたからこそ感動もせず、余裕を持ってなしえてしまったことだと思うのだ。現実離れしていると感じていながら、心の中では、本気で頂上まで登りたいと思っていたと思う。
本気に物事を考え、本気で物事に打ち込めば、不思議と無理だと思っていても本気で考えた通りになるものだと私は思っている。ほとんどのことが途中で挫折してしまうのだが.....。マッキンリーの登頂は、最後まで挫折しなかった数少ない中の一つである。
今年の夏は、是非とも富士山に登ってきたいと思う。(つづく)
(おまけ)
日本一高い山が富士山だということは日本人なら誰でも分かるが二番目に高い山はという質問に答えられる人は少ない。
それほどにナンバー1とナンバー2の差は大きい....。ビジネス上のシェア(占有率)の話である。しかし、私は、ナンバー1にはなりたくない。決して、諦めではない。なぜなら、富士山は、日本一ゴミの多い山でもあるからだ。何番目でもいい。ゴミ一つ落ちてない日本で唯一の山になりたい。ナンバー1よりオンリー1の企業になりたい。
05.登山訓練(穂高)
富士山から帰ってきて、またすぐに連絡がはいり、今度は穂高に連れて行かれる。富士山を楽々クリーアし、また半分旅行気分で出かけていったが、山はそんなに甘くはなかった。
キャンプ地までは、上高地のすばらしい自然に感動しながらなんなく登ってしまったが、次の日の登山は初心者の私にとっては衝撃的であった。
稜線まで登っていき、反対側を見ると、数百メートルの崖で、しかも、雪が数メートル積もり、風でその雪が崖のほうに張り出していた。なんと、その上に私がいるのである。
まだ、それは、序の口であった。そこで終わるかと思いきや、尾根に沿って縦走するという。しかし、目の前の尾根は、まさに、岩の上に雪が積もり、人が乗ったら今にも崩れそうなのだ。冗談じゃないと思って聞いてみたら、さすがに、そこは危険なのでその岩の横を行くという。岩の横・・・。その岩は垂直で、しかも、数百メートル絶壁であり、落ちたら間違いなく命はない。冗談でしょうとまた聞いてみると、最初に一人行って、ザイルで確保しながら行くから大丈夫という。・・・ザイルで確保するって行っても、そのザイルはただ、私のベルトに繋がっているだけで、落ちたら、そのベルトが腹に食い込んで下手すりゃ内臓破裂で死んでしまう。ただ、死体が下まで行かないためだけの気休めでしかないではないか。
私は、スパイダーマンのように岩にへばりつき、ほんとに命がけでなんとかそこをクリアーすることが出来たが、登山家という人達とは、あまり付き合うまいと本気で思った。よく、恐怖で失禁してしまうことがあるが、初めてその感覚が分かったような気がする。(失禁したわけではありません)
また、こんな事もあった。途中で、女性がうずくまり泣いていたので声をかけてみると、連れの男性が滑落してしまったという。なんだか、今まで経験したことないことが次々と起こり、自分が別世界に来ているような気がした。今考えると大変なことなのだが、その時は、助けを呼んだのだからしょうがないと、すぐにその場を去ったが、どうなったのか、今思うと心配である。
何が楽しくて、みんな好き好んで山登りをやっているのか、この時点ではまったく理解不可能でした。
06.登山訓練(筑波大学)
私の母校である会津高等学校は、進学率がほぼ100%という県内でも指折りの進学校である。そもそも、私がそこに合格したのが奇跡であった。当然、勉強などするはずもなく、遊びに遊んだ3年間だった。と言っても、大学には当然行きたかったので、いろいろと受験してはみたが、受かるはずもない。みごとに、全て断られてしまった。そんな私にとって、筑波大学など、あこがれであった。
最初はやはり、色々な検査をするのだが、最後に実験室みたいなところに案内された。そこは、大きな魔法瓶みたいな物があり、そこに我々がはいり、ふたを閉め、マッキンリー山頂と同じ気圧にして、どうなるか経験するというものだった。胸に心電図をとる機械など、いろいろとつけられ、中で自転車を漕いだような記憶があるが、定かではない。覚えているのは、いつのまにか寝てしまって終わった頃に起こされた事だ。
これが、高山病というやつらしい。しかし、最近トレーニングで富士山などを登ったと行っても、登山の素人に、高山病の怖さなどこのころは知るよしもなかった。まだ、このころは、マッキンリー登山ではなく、マッキンリー観光旅行の気分だったのだ。